浦嶋子伝の採録に関わった伊余部馬飼は、持統天皇3年の撰善言司にも任命されていますが、この官はいわゆる史官の枠組みに入るものでしょうか。また、彼の子孫には『左氏伝』を講義したという家守や、明経道に優れた善道真貞などがいますが、伊余部の一族は学者の家柄といえるのでしょうか。

伊余部氏については、氏族的性格についてはよく分かりませんが、尾張氏や海部氏と同じ火明命を祖としていることから、もとは伊予国にあって海の供御に関わっていた一族(統括する伊余部がそうした部民であったと考えられます)であり、その関連で海上交通、対外関係に力を伸ばしていったものと考えられます。撰善言司については、軽皇子文武天皇の帝王教育のための「善言」(古人の徳ある言葉を集めたもの)を編纂するための組織とする見解が主流ですが、私は、生まれながらの「天皇」である文武の即位を準備するために、神話や祝詞宣命などをはじめとする天皇を表現するための言葉全般の作成を担った機関であったと考えています(以前、延喜式研究会の大会で報告し好評を得たのですが、10年以上経った今でも論文化には至っていません)。伊余部氏が中国文化に明るい家であることは間違いなく、史官的な役割を果たしていることは確かですが、氏族制の性格上「史官の家」というわけではなかったと思われます。