弥生時代には関東まで稲作技術が広まりましたが、それは西の方に住む人々が、新しい場所を求めて東へ移動したのでしょうか。

実際に移動する集団もあったと思われますが、集落間の交流や交易を通じて、稲籾や稲作の知識・情報が取引されたと考えた方がいいでしょう。イネは栄養価が高く、生産方法が定着すれば、狩猟採集よりも食生活が安定します。当初は狩猟採集との併用であったと考えられますが、水田農耕に特化した集落が増えてゆくに連れて、同様の生活へ移行するものも増加していったのでしょう。この波及自体は意外に迅速で、それだけ、縄文期の社会の発展段階が高度であった、すなわち、稲作に適した組織的労働を営めるほどに社会の形態が進んでいたのだと考えられます。