アルヴァクスの集合的記憶の関係で、例えばふとしたときに昔のことを想い出すことがありますが、これも集団的記憶に位置づけられるのでしょうか。

我々の意識や心理が社会的なものである以上は、記憶の想起も常に社会的にならざるをえません。ふとした昔の個人的体験の想起も、まずなぜその想起の機会が与えられたのか、その機会になぜその記憶が結びつけられたのか考えてみると、現在の自分が置かれている社会的情況と密接にリンクしているのが分かるはずです。例えば、大学で生物学の授業を聞いているとき、ミミズの生態についての話から幼い頃に母を手伝った草むしりを想い出した。これは極めてプライヴェートな記憶であり、想起ですが、意識するとしていないとにかかわらず、まずはミミズの生態学的知識という制度的な集合的記憶に結びついています。授業を通じてミミズがどんなところに棲息しているか、何のために潜んでいるか、何を食べ何を排出しているかを聞いているうちに草むしりの経験を想い出したのは、草むしりをするなかで、草を取ったあとの土の盛り上がりや根の間に、ミミズをみた記憶が結びついたからでしょう。これは、自身の経験が集団的記憶によって整理され、想起されたことを意味します。また、母親との幼い頃の経験は、その後の母親との関係や、家族の母親に対する言及等々によって変容させられてはいないでしょうか。そう突き詰めてゆくと、どれほど私的な経験であろうと、集団的記憶とはまったく切り離せないことがみえてくるはずです。人間が環境のなかで種々の刺激を受け取り、それに反応して生きる生物である限り、想起自体が社会との関わりによってなされざるをえないのですから。