魏が黄幢を下賜するということに、それほど重い意味があるのでしょうか。また、当時の日本の軍事力はどの程度のものだったのでしょう。

この頃、邪馬台国倭国朝鮮半島、もしくは大陸に相応の派兵を行える力があったかどうかは分かりませんが、戦争状態が長く続いていましたので、社会的疲弊はしていながらも戦争の知識・技術は進化していたと推測されます。魏が黄幢を下賜し、それを掲げ軍の召集をしてよいとの許可を出したことは、講義で扱ったとおり、邪馬台国が魏帝の承認を受けた軍隊であることを意味します。邪馬台国は狗奴国に魏軍として臨むことになりますので、もしその後ろに呉国がおり、狗奴国も呉の軍旗を掲げているということになれば、両国は火種を抱えてしまうことになるわけです。魏は燕攻略という大仕事を終えていましたが、それでも未だ蜀は滅びずに残っており、もちろん呉も存在しましたので、不用意な軍事衝突によって相手国に批判や派兵の大義名分を与えたり、意図しない状態で大規模な紛争へ発展させてしまうことは、できるだけ回避したかったに相違ありません。それでも邪馬台国へ黄幢を下賜し、使者を派遣して詔勅まで与えたのは、やはり卑弥呼を厚遇していたからだといえるでしょう。