歴史学にとって、対象の主観性を汲み取る必要性は大いにあると思うが、研究者側の主観性を強く打ち出すことはどうなのだろう。もちろん、主観のない研究などありえないことは承知しているが…先生はどう思われますか?

このあたりは、ポストモダン思想のなかで長い間議論され、歴史学でも隣接諸科学との間で大いに意見交換がなされたところです。実証に自己のアイデンティティを求める歴史学は、この面では総じて保守的でしたが、とくに日本の歴史学界は異常で、今でも充分な情報さえ入ってきていません。歴史学を革新しようとした代表的論者にヘイドン・ホワイトがいますが、彼の思想は称賛・批判を含めて全世界を席巻したものの、日本では未だに主著『メタヒストリー』さえ翻訳されていないのです。しかし、最近では東洋大学の史学科が彼を招聘してシンポジウムを開いたり、『メタヒストリー』の翻訳へ向けて研究会を繰り返したりしているので、きちんとアンテナを張っている人は理解があるでしょうが…。この点、話をすると長くなりますので、拙稿「主体を問う、実存を語る―文学/歴史学の論争と共通の課題―」(『国文学 解釈と教材の研究』52-5、2007年)を参照してください。ひとつだけいえるのは、研究者自身の主観を大切に研究する、叙述するということは、別に過去を恣意的に截断するということではなく、むしろその逆で、自身の過去との向き合い方に責任を持つ、責任を取るということです。近代科学主義の無批判な踏襲、依存自体が、歴史学者をあたかも神のように振る舞わせる文字どおりの隠れ蓑であり、傲慢さの根源なのです。