窯業のために大量の樹木が伐採されたとのことですが、多雨の影響で稲作に支障が出ていたのなら、堅果類の採集も重要であったはず。伐採できるだけの樹木があったのでしょうか?

須恵器や土師器の生産に携わっていた工人たちの生活は、考古学分野で次第に解明されつつありますが、薪炭材が不足すれば移動してゆく彼らが窯業の傍ら生産に携わっていたとは考えにくく、上位の政治勢力との繋がりのなかで、他の団体から食物の供給を受けていたのではないかとする見解があります。陶邑の薪炭材の情況をみていると、堅果をなす落葉広葉樹も伐採していたのではないかと考えられますので、彼らにとってはあまり採集の意味はなく、陶器焼成のためのエネルギー源でしかなかったということでしょう。このような活動をする人々と、稲作を主に行う集団(その補完のために適度な採集も行っていたでしょう)との活動領域は、丘陵の上/下である程度区分(棲み分け)がなされていたと考えられますが、製鉄集団と同じように、山林が少なくなると斜面の崩落などが起きやすくなるので、上位に調整するような政治集団が存在しないと、種々の軋轢を生じる結果となったでしょう。