高誘注型をはじめとする洪水伝承が、『淮南子』以降に書承の形で伝播していったことは想像しやすいですが、同種の話型が村落などの地域社会のなかで、いったいどの程度人口に膾炙していたのか疑問に思いました。ある話型が教訓たりうるためには、共同体で口承される必要があるのではありませんか?

これから追々お話ししてゆくことになると思いますが、歴陽周辺には、高誘注型水没譚のヴァリアントが極めて多く残っており、そのなかには、どうも書承のみの変化によらないものも存在しています。文体がまったく異なっていたり、何らかのランドマークと結びつけるため、ある要素のみが突出して変化しているという事例です。書承から口承へ変化し、それがまた成文化されたものなのか、あるいはずっと口承のなかで変化を繰り返してきたものが成文化されたのかは、見極めがつきません。しかし、広汎な口承の世界が展開していたことは確かです。次のパートで行う少数民族の伝承などは、その点を強く裏付けています。