大きな古墳を造ってアピールしたり、規格を共有したりする中期と、外からはみえない内部を装飾する後期とでは、古墳の意味がずいぶん違うように思いました。ヤマト政権の権力構造が変化したということでしょうか。

古墳研究ではあまり注目されていないことかもしれませんが、確かに、石室部の自由度が増してゆくことは、地域社会における古墳の意義が変容したのだといえるでしょう。地域王権の権力を標榜し、また中央の権力との繋がりを体現する装置であったものが、より被葬者を〈送る〉ことに重点を置くようになった。また、そのための多様な作法を許容するような情況が醸成されていった。これは、最終的に古墳の消滅に至る、王権と地域との関係の変化、その表現の仕方の変化と軌を一にしているのでしょう。