威信財としての銅鏡などについて、それを「中国から送られたもの」「地位を保証するもの」であると信じさせる根拠は何だったのでしょうか。

銅鏡の文化が定着する以前は、やはりその銅鏡自体の体現する鋳造技術、意匠の卓抜さ、すなわち「列島においてはみたことがないもの」「列島では作成できないもの」であったことが証拠となったのでしょう。また鏡は威信財として以上に祭具であり、前方後円墳の祭式に結実する何らかの儀式作法、呪術の形式の一端を担っていたと考えられます。6世紀初め頃、それまで時代・地域によって多様であった神祭りの形式が、鏡・剣・玉の3点セットを用いるものへ画一化されます。これは、後の神祇官に対応する機関がヤマト王権のなかに存在したことを暗示しますが、前方後円墳の規格が配付される際にも、その祭祀について何らかの情報が供与されており、鏡の使用はそのうちの重要な部分を占めていたのではないかと思われます。