この時代の交流の基盤になった船舶は、どのような形をしていたのですか。また、単独で渡航していたのでしょうか、それとも船団を組んでいたのでしょうか。

舟形埴輪や装飾壁画、以前に授業でも紹介した巣山古墳の舟形木製品、その他瓜破北遺跡などで出土した船材の一部などから、古墳時代の船は準構造船とみられています。すなわち、内刳を施した丸木船を核に、前後両側面に板材を加え拡張したものです。外洋の航海に利用されたものは、概ね10メートル前後の大きさがあったと推測されています。倭国朝鮮半島の間には、外交使節のやり取りはもちろん、倭国側からは軍兵も派遣されていますので、船団規模での移動があったことは間違いないと思います。壱岐対馬を介して九州〜朝鮮半島を航行するのは大きな困難ではなく、中国からも、多くの人々が大陸の混乱、飢饉、苛政などに追われて溢れだし、列島へ辿り着いたものと思われます。