キリスト教と中国思想とを比較すると、人と自然との関係性についてまったく違う考え方をしているように感じます。キリスト教では、自然と人間との間には序列があり、人は特別なものという位置づけですが、中国では自然の一環であるという位置づけをしています。この違いは何が原因で生じるのでしょうか。

中国でも、各民族・各地域、時代や社会情況によってもさまざまな相違があります。それは、キリスト教文化においても同様なのです。まず、自然との関係でキリスト教批判をする人々は、一様に「創世記」の一節を口にしますが、全時代・全地域のヨーロッパ文化が、その思想を共有していたわけではありません。中国では六朝期に神殺しの物語形式が生まれ、自然を象徴する神を英雄が殺すことによって、開発を達成するという発想が流行します。これは古代日本へも伝わり、耕地開発を推し進めるイデオロギーの役割を果たします。一方ヨーロッパでも、例えば現在でも多数の巡礼者を集めるルルドの泉など、在地の水神信仰とキリスト教のマリア信仰が習合した聖地、祭儀や年中行事が多く存在します。西洋=一神教=自然に対して敵対的、アジア=多神教=自然に共生的、という整理は極めて乱暴で不正確です。ステレオタイプの議論に惑わされず、自分の目でしっかりと世界をみつめてください。