古墳に対する祭祀をしなくなったのは、いつ頃からなのでしょうか。 / 何を契機として、神祇祭祀と古墳祭祀の区別が付いたのでしょうか。 / 区別が付いていない状態は、死者=神と理解してよいのでしょうか。
古墳祭祀が終焉を迎えるのはその終末期、7世紀前半と考えられます。ちょうどいま授業でやっているあたりで、中国文化を受容して社会改造を行い、思想や心性も前代から大きく変質してゆく時期です。古墳祭祀のメンタリティー、その様式は神社祭祀に継続してゆきますが、いわゆる薄葬化が進み、豪族の権力表象としての機能は寺院などへ、その地位や王権との関係性の保証は姓、位階・官職などによって代替されてゆくのです。古墳祭祀と神祭りが分かれるのは6世紀初め頃で、剣・鏡・玉3点セット(これは三種の神器へ受け継がれます)の滑石製模造品が神祭りに用いられるようになり、これまで古墳に副葬されていたような銅鏡や武具・農具などの類とは一線を画するようになってゆきます。これはやはり、これまで一括りにみられていた祖霊と自然の神霊とが、明確に区別されるようになったためでしょう。その契機が何なのかは分かりませんが、例えば、三角縁神獣鏡や前方後円墳の背景にあった神仙思想は「人間が修行して神になる」ものであり、被葬者を祀る古墳祭祀とは適合的であったのに対し、自然神のあり方は大きく異なります。神仙思想への理解が深まるにつれ、その相違がかえって明確に意識されるようになったのかもしれません。また、中国の礼制では、神々の類別に応じて祭祀のあり方も細かく異なっています。日本では律令制の導入後もこうした区別をそのままには受容しませんでしたが、中国の制度を援用して神々のあり方や祭祀の形式、神職の制度などを整えてゆくなかで、祖霊と自然神のそれを分別する発想自体は採用することにしたものでしょう。上記の神祭り形式の統一は列島全体で画一的に進められており、これは、ヤマト王権のなかに祭祀を司る後の神祇官のような機関が誕生したことを意味しています。祖霊/自然神の区別も、このような機関のなかで決定されていったのでしょう。