官僚制と氏族制の二重構造の萌芽は雄略朝にあるとのお話でしたが、それはいつまで続くのでしょうか。 / 日本はなぜ中国のように官僚制を実現できなかったのでしょうか。

律令制や官僚制自体、中国の極めて長い王朝・国家の歴史において、独自に生み出されてきたものです。中国は、王朝の支配する領域が極めて大きく、また多様な民族が存在します。地域によって文化も相当に異なっています。それらは氏族制に依存する範疇を超えており、統一的に支配しようとすれば、氏族制を超越・相対化するシステムを目指さなければならなかったのでしょう。均田制などの起源として日本へも大きな影響を及ぼす北魏は、もともと胡と呼ばれた北方の鮮卑拓跋氏が中核をなす王朝ですが、その建国の初期に、あえて部族を解体する命令を出しています。同様の歴史過程を経てきていない日本社会が、輸入しただけの官僚制を実現できなかったのは当然といえば当然でしょう。しかし、日本社会もそのあり方に適合した制度を涵養しようとしたのであり、それが氏族制との二重構造であったと解釈できます。これは平安前期まで受け継がれてゆきますが、奈良時代から両者のすりあわせがさまざまな改革を通じて進められ、9世紀後半から10世紀にかけて、王朝国家体制という新たなシステム(律令制が個別人身支配を前提に人へ課税する体制であったのに対し、それが把握しがたくなった情況に対応し、土地へ課税する体制へ転換したもの)が出来上がってゆきます。この頃には社会のありようも変化し、氏族の競合する世界から、ある程度はそれを基盤にしながら、「家」の競合する社会へと進んでゆきます。