日本の亀卜は古墳時代に伝来したものと聞きました。江南地域に災害予兆も含め亀卜の伝統があるとのことですが、六朝の頃、江南と日本列島との文化的交渉は実態的にどのようなものだったのでしょうか。

古くは三国の呉の時代、赤烏年号を持った銅鏡が日本に伝来していますので、弥生時代末〜古墳時代の初めにかけて、江南地域との交流が存在したことは確かでしょう。その後、多少の断絶期間を挟みながらも、東晋、劉宋、南梁と、倭国と江南王朝との間には密接な国交が持続します。決定的なのは倭の五王による劉宋への遣使で、府官制に基づき宋帝から将軍職を得ることで、列島の支配体制を確立しようと図ります。この頃、種々の情報が南朝からもたらされ、中央集権国家への準備が始まったことは間違いありません。『日本書紀』には、天地開闢を語るために『淮南子』や『三五歴記』といった南方の文献が用いられていますが、それはヤマト王権の発祥と南朝の関係とに基づいているのでしょう。ちなみに、日本の亀卜が中国中原のそれとは異なり、クサガメやハナガメではなくウミガメを用いているのは、やはり『六度実経』や「毛宝白亀」にみるような亀と水との関わりに由来するものと考えられます。