蘇我本宗家が友好関係を結んでいたのは、朝鮮三国のうちいずれでしょうか。

やはりヤマト王権の外交姿勢として、百済との結びつきが強かったものと思います。馬子の時代には、一時期新羅への征討も計画していますので、これまで干戈を交えてきた、高句麗新羅との関係は良好ではなかったでしょう。しかし、それらの国々から出身した渡来人も抱えていましたので、情報は常に入手に努め、それぞれの使節にも柔軟に対応していたと思われます。