宮廷の俳優たちですが、ふだんは何をしていた人たちなのでしょうか。

年中行事的になされる饗宴や、あるいは外交使節らをもてなす饗応の儀式で、歌舞を披露したものと考えられています。ドラマで登場した「俳優」は、中国から伝来した伎楽のそれでしたが、7世紀にはもっと列島色の濃い芸能が行われていた可能性が高いですね。この種の芸能は、律令制では、治部省雅楽寮によって管掌されていました。『令集解』職員令/治部省雅楽寮所引「大属尾張浄足説」によると、舞曲の曲目には、まず在来系のものとして久米儛・五節儛・田儛・楯臥儛・筑紫儛・諸県、外来系のものとして、度羅儛・婆理儛・久太儛・那禁女儛・韓と楚と女を奪う儛・唐・百済・高麗・新羅・伎楽が挙げられています。在来系は武器を用いた集団演舞中心、外来系は奏楽中心の個人演舞であることが特徴です。このうち最初の久米舞は、王権直属の武力である大伴・佐伯が担当、刀を携えて舞うもので、「蜘蛛を斬る」との記述から(「蜘蛛」はまつろわぬ者としての「土蜘蛛」と同意か)、王権の軍が反抗する部族を鎮圧してゆく国土平定の物語を内容としていたと考えられます。乙巳の変を政治史的に分析した遠山美都男氏は、俳優が宮廷内を徘徊している記事は乙巳の変のそれ以外に見出せないうえでに、入鹿から剣を取り上げる役割を担っており、クーデター側の人物であることは確実である。俳優の勤めたのが久米舞や吉志舞といった剣舞とすれば、統括者は阿倍氏や佐伯氏であり、軽皇子の周囲に結集していた阿倍内麻呂大伴長徳、佐伯子麻呂らが関係しているのではないか、と推測しています。