『日本書紀』推古天皇32年(624)冬十月癸卯朔条によると、蘇我馬子は阿倍麻呂らを通じて、蘇我氏の正統性の根拠ともいうべき葛城氏の故地、葛城県を賜与を要求します。それに対し推古は、「大臣は私にとってオヂに当たり、大臣のいうことは何ごとであっても軽んじることはできないが、葛城県を失うことはできない。今これを失えば、後の君主たちから愚かな女との誹りを受けるだろうし、私だけでなく大臣も不忠の烙印を押されるだろう」といった主旨のことを述べています。この一事から考えても、推古は大王家の利害を代表して行動しており、また自律的な決断ができる存在であったと考えられます。