三陸地方の伝承は、生き残った男が死者を悼むことを記していますが、他の洪水譚にそれがみられないのはなぜでしょうか。

そこに主題がないからだ、としかいえません。また中国では、少なくとも儒教の建前的な立場では、非業の死を遂げた人間への祭祀は行わないことになっているのです。こうしたことが宗教の抱える喫緊の課題となってゆくのは南北朝のことで、主に仏教が担い手となりますが、なかなか庶民レベルにまでは浸透してゆきません。また、後世になればなるほど、巻き込まれて死ぬ人にはそれなりの瑕疵があるとの見方、日常的な道徳の抑制が強く働いてゆきますので、それが死者への意識が表出しない原因かもしれません。