南北朝正閏論争は、なぜ問題とされ、なぜ南朝正統の形で決着したのでしょうか。明治天皇の系統は北朝方のはずでは?
南朝正統説は、江戸期に徳川光圀の『大日本史』が打ち出した議論で、国学的伝統のなかでは非常に根強い見解でした。渦中の喜田貞吉を含む東大の修史局のグループは、史料に即して両論併記を採りましたが、両朝を掲げること自体が万世一系の国体の動揺を示すとみられたのでしょう。『読売新聞』の批判は国会で問題とされたうえ、大逆事件と結びついて民間運動へも飛び火し、「喜田貞吉は幸徳秋水らの仲間で国家転覆を目論見、その種の思想を尋常小学校生に植え付けようとしていたのだ」との風聞まで生じました。皇室としては、血縁的繋がりより三種の神器の継承それ自体を重視したので、南朝正統論をあえて否定しなくともよい(すなわち、現皇室は南朝・北朝の統一のうえ、南朝の神器を継いで天皇位に即いたのであり、北朝の系統ではない)。そうした判断から、世論の後押しを受けた南朝正統論が肯定され、閣議決定されたと考えられます。この時点ですでに、明治国家の作り上げた〈国体〉は、政府によってもコントロールすることができなくなっていたといえるかもしれません。