『日本書紀』のように大きな問題のある文献が多いなかで、それでも当時のことを知るためには文献を頼り、批判することもまた文献に依拠するとすれば、歴史の真実を見出すことは可能なのかという疑問が浮かびます。

要するに、何を「史実」とするかという問題です。例えば、ぼくが批判的に行った、「聖徳太子厩戸王を誇張的に描いたものだ」という指摘も、史実を叙述したことになるわけです。例えば『日本書紀』にしても、中国や朝鮮の史料、出土文字資料や同時代史料との比較をするなかで、ある程度の事実性は確保できます。問題がある書物だから使えない、ということはありません。時代のなかでつくられてきたものは、何らかの形で時代に関わっている。それをどう発見し表現してゆけるか、という問題なのです。