接見儀礼で国書を読み上げるのは、中国語ですかそれとも日本語ですか。僧侶を派遣したのは、中国語ができたからでしょうか。 / 明側の使者が2人とも禅僧であったのは、禅宗が重要視されていたからでしょうか。 / 外国の使者との言語的コミュニケーションは、どのようにとっていたのでしょうか。 / 公家などが義満の外交姿勢に批判的な態度をとっていたのは、対明外交の実情を知らなかったためだろうか。その批判理由は何なのだろうか。
明使により国書が読み上げられるなら、それは中国語です。実際に義満が読んだのなら、日本語で読んだのでしょう。当時の日本において、宋代中国と盛んに交流してきた五山の禅僧は最高の知識人であり、中国語と中国文化に通じた幕府の実務官僚としても活動していました。義満が、同朋衆の禅僧である祖阿と博多商人肥富を最初の使者として明へ派遣したのは、彼らが、言語コミュニケーションも可能な中国通であったからにほかなりません。瑞渓周鳳の『善隣国宝記』には、彼ら自身が起草した外交文書の按文も収められています。ただし、周鳳などによれば、幕府・五山が外交を行うのは朝廷から委任されているからであり、本来は朝廷がなすべきものとの意識が強かったようです。義満の外交に対する批判は、このような部分からも出てきており、単に対明外交の実態への無知が原因ではないと思われます。