義満が明側の規定どおりの儀礼を行わなかったのは、意図的でしょうか無自覚にでしょうか。また、明に対する「対等」との意識があったのでしょうか、「上位」との認識があったのでしょうか。 / 義満の態度は、明帝には報告されなかったのでしょうか。もし報告されたとすれば、皇帝は激怒しなかったのでしょうか。

明の使者の言い分も聞き、情報も得ていたので、義満の行動は意図的であったと思われます。やはり、盲目的な臣属をよしとしなかったのでしょう。建文帝は、自らの政治的基盤を堅固にするため、そんな義満に妥協して彼を国王として認めようとします。しかし、その使者を接見した応永9年の段階では、すでに朱棣(後の永楽帝)のクーデター(靖難の役)によって建文帝は死亡していました。義満のもとには未だ精確な情報が伝わっていなかったものの、彼は翌年派遣の対明使へ、建文帝宛の書簡と朱棣宛の書簡の2つを持参させています。永楽帝は即位直後にその件を言祝ぐ書簡を送ってきた義満を重視し、華夷秩序を満足させるものとして重視してゆくわけです。そこには、永楽帝/義満の双方に、形式的な点には妥協し実利を得る政治的な判断があったものと思われます。