人間を自然の一部と捉えれば、里山などは太古からではないにしても、昔からの「自然」の風景として教えることもできるのではないでしょうか。 / 稲が租税として定められなければ、雑穀ももっと豊かに作られていたかも知れませんが、それは環境破壊にならないのでしょうか。
確かに、人間を自然の一部とみる視点も存在し、また重要な意味も持っています。しかし、こと環境破壊に関しては、そう見方を変えることでいかなる意味があるのか、再考してみなければなりません。エコナショナリズムと同様に、問題を単純化し思考停止を招くだけではないでしょうか。人間も生態系の一部だから、何をしてもよいということにしかならないのではありませんか? 「農耕原罪論」という考え方があり、農耕の始まりが自然と人間の乖離を生んだそもそもの原因だと主張する研究者もいます。ぼくはそこまで極端に農耕を否定しようとは思いませんが(農耕という営みのなかで、他の動植物を含む自然環境と直接的に触れ合うことが、人間の心性に種々プラスの影響をもたらすことも事実でしょう)、少なくとも、自然環境への圧力をできるだけ少なくするような農耕が実現されるべき、とは考えています。過度な稲作は、景観を一変させ、もともとその地に駆動していた生態系に強い圧力を生じます。植生はイネ一種が差別的に育成されるものへ変質しますし、生物多様性の観点からいっても問題が多く、病害虫や災害にも弱く飢饉を生み出しやすい状態となります。作物も、その地域の環境に根ざしたものをできるだけ複合的に生産する方が、ひとつひとつの作物の環境へかける負荷も少なく、育成環境自体も多様化し、ひとつの作物がダメになっても他の作物を用いうるので、災害にも強いため都合がよいのです。