光明子と葛城王が異父兄弟ということは、不比等の側室?が他の男性とも関係があったということでしょうか?

側室というより、不比等の後妻ですね。かつて美努王に嫁していた県犬養宿禰三千代がその人物で、大宝元年(701)には不比等との間に光明子が生まれていますので、少なくともその頃までには美努王のもとを去っていたと考えられます。三千代は15歳で出仕し、草壁皇子の妻となった阿閉皇女(後の元明天皇)に仕え、珂瑠皇子(後の文武天皇)の乳母になったのではないかとの見解もあります。不比等も草壁のブレーンであった可能性が高いので、そこで2人の出会いがあったのでしょう。彼らは奈良前期の宮廷を表裏にわたって支えてゆくことになりますが、あるいはその結婚には、草壁の母であり、元明の姉でもある持統が関わっていたのかもしれません。