仏教国家の建設についてですが、光明皇后が女性だからこそ国分尼寺が作られたのでしょうか?

やはりその可能性は高い、と考えられます。国分寺の先例としては、唐の則天武后による大雲寺、中宗の龍興寺玄宗の開元寺などがありますが、いずれも僧寺・尼寺がセットになったものではありません。光明皇后は、自らに付属する輔弼機関の中宮職を、律令に規定のない皇后宮職、そして紫微中台へと拡充してゆき、東大寺の造営管理や国家的写経事業の展開などを担当させます。その写経に関しては、女性を男性へ変成する功徳を持つ『宝星陀羅尼経』なども含まれています。また、国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」ですが、当時の中国における『法華経』思想で「滅罪」を意味したのは、悪業による病の滅尽でした。今後詳しく話してゆきますが、光明皇后は仏罰とも考えられた天然痘で兄たちを失っていますので、その菩提を弔い、また藤原氏への批判をかわすために、国分尼寺の建設を推進していったものと考えられるのです。