国ごとに配置された医師・医生は、誰を対象に医療を行ったのですか。 / 宮廷以外の一般村落などでは、医療はどのように行われていたのでしょうか。 / 地方の医療は有料だったのでしょうか。

国医師は諸国の医療や医生の教育のほか、典薬寮へ輸進する雑薬の確保、造薬のほか、調使や検田使、班田使として地方行政の代理的業務も担ったようです。問題の医療に関しては、まず官人身分の治療が第一でしょうが、国守の「百姓を守養す」との職務に相応し、建前的には一般庶民をも対象にしたと考えられます。例えば、後に応天門の変に縁坐し土佐へ流される紀夏井は、讃岐国守時代、医薬にも習熟し薬園を充実させたようで、配流先の土佐でも「自ら山沢へ往き、薬を採り、合練して以て民に施」したと記録があります。その後任に当たる菅原道真も、国内巡行に際して病者や障がい者に病因を質問したことが、『菅家文草』に窺えます。彼らの活動にも、国医師がさまざまに協力したものと考えられます。また、国医師以外でも、僧侶をはじめ医術・呪術の心得のあるものが、民間で活躍した様子が史書や説話のなかにみられます。当時僧侶は一種の総合科学者でもあり、『医心方』には僧尼による処方も収録されています。有名なところでは、鑑真がもたらした脚気の処方などをみることができます。有名な行基は交通路沿いに布施屋と呼ばれる施設を設け、後には仏教の道場も建設してゆきますが、それらは行路で苦しむ役民や運脚夫に食料、治療を施し、休養させる役割を持っていたと考えられています。