古代の人々は、なぜ動物を擬人化したイメージを持つのでしょうか。自分はネコや鳥ではないと分かっているのに、なぜそれになりうると思うのでしょうか。 / 鳥に扮装した人間ではなく、「鳥人」のような存在への信仰はなかったのだろうか。

アニミズム的な精神世界においては、多く、個々の動物は本体の精霊がまるで衣服を着るように毛皮を身に着けた存在である、と考えられていることが分かっています。そして注意すべきことに、その本体は人間とまったく同じ姿をしているのです。ゆえに、人間が精霊の世界に赴いて異類婚をなし、子供を儲けるといった神話・伝承もたくさん残っています。ヒトの認識の限界を超えられないという意味ではヒト中心主義ですが、精霊本体をプラットホームにあらゆる生命が同一の存在であるとみなす点では、近年の環境倫理に近い生命圏平等主義ともいえます。そしてそこから来る逆転の発想で、毛皮を身に着ければ人間も獣に慣れる、という心性も強固なのです。実際に祭祀におけるトランス状態のなかで、毛皮を着け動物の紛争をした人間は、動物そのものに「なる」のです。人間と動物とは違う、両者がそれぞれの立場を交換することはないというのは、まさに近代人の発想でしかありません。弥生の鳥装の人々も、同じようなものとみなすことができます(人間も動物もお互いに変身できる存在ですので、両者の特徴を持った「鳥人」のようなキメラは、まだ存在しないようです)。