光明子が藤原氏の人間だという自覚を強く持っていたとのことですが、光明子に限らず東アジアの女性は長いことそのように思っていたのではないでしょうか(中国や韓国の女性は、今も姓を変えないですし)。

なかなか当時の王族で比較対照になる史料がない(一般氏族出身で皇后になった人がいない)ので分かりませんが、確かに後宮へ出仕するという時点で、家や氏族を背負って王権へ奉仕する認識であることは確かですね。「光明子」という名前は『金光明最勝王経』から名づけられたらしいことが分かっているのですが、しかしそれを名乗らず、わざわざ「藤三娘」と署名している点に、彼女のアイデンティティを明確に読みとれます。父方に大王家、母方に蘇我氏の血を持つ推古は、馬子から葛城の地の賜与を要求されたとき、大王家的価値観からこれを斥けていますが、光明皇后のうちにも天皇家藤原氏の葛藤があったとすると面白いですね。