プリントにあった平城京の地図ですが、丸の大きさは家の大きさと解釈してよいでしょうか。位があまり高くないのに家が大きいのは、遺産的な問題でしょうか。

そうですね。一番気になるのは、61番、外従五位下の「某姓ム甲」でしょう。これは発掘によるものではなく、『唐招提寺文書』に残っている「家屋資財請返解案」によるもの。ム甲の父親は国司を務めた裕福な人物だったらしく、左京七条一坊に1区画、右京七条三坊に2区画、他に大和国内に1区画の、合計4区画の宅地を所有していました。しかし父の死後、その妹たちが律令に違反して無理にこれを奪ってしまったため、ム甲がこれを取り返すべく訴えたようなのです。文書は案文で、請求の結果がどうなったのかは不明ですが、本来ム甲は、現在の官位にかかわらずこれを単独で相続できる立場にいました。宅地のうちいずれかは母の所有物であったようで、相続者が限られていれば、巨大な物件を蓄積・取得してゆくことも可能だったのです。