藤原四子のなかで、なぜ武智麻呂だけが強い批判の対象になったのでしょうか。

やはり、武智麻呂が首班的な位置を占めていたためと思われます。長屋王体制の後期には、彼の文学・政治サロンである作宝楼に対して、武智麻呂は習宜別業を持ち、多くの文人や官吏たちをそのもとに結集していました。四子のなかでも、武智麻呂が長屋王のライバルとみなされ、そして彼を死に追いやった張本人とみなされていたのでしょう。