平安京以降は、ずっといまの京都の位置に都が置かれていますが、奈良や飛鳥は流通センターとしてどのような限界があったのでしょうか。

後々言及することになると思うのですが、飛鳥や平城京が放棄されたのは主に政治的理由によるもので、流通センターとしての限界によるものではありません。例えば飛鳥朝末期の段階で、日本は中国より都城制を導入しますが、飛鳥は土地面積的に大規模な都城を営めるキャパシティーがありませんでした。そこで、難波津に連なる水上交通の要衝である木津に繋がり、南へ延びる上ツ道・中ツ道・下ツ道などの交通路を基底に、藤原京平城京などを建設してゆくわけです。藤原京が放棄されたのは、中国的スタンダードを意識して造営した都が唐の現実とかけ離れていたこと、平城京が放棄されたのは、王朝の交替を印象づけるためのデモンストレーションとして、あるいは長期使用による環境問題などが生じてきたためと考えられています。