鉄鋌の分布図は主に西日本に集中していましたが、東日本には伝わっていなかったのでしょうか。

稲荷山古墳出土鉄剣銘が示すとおり、もちろん鉄器文化は東日本へも伝わっていました。しかし、朝鮮半島との交渉は主に西日本や日本海側の首長たちが担っていましたので、それらに比べて鉄鋌などの出土量は少ないようです。しかし、7世紀になると王権の東北制圧が進み、渡来人の集団配置も行われますので、徐々に先進的な知識・技術が扶植されてゆくものと考えられます。同時に、東国は圧倒的な武力を持つものとして王権に恐れられ、内乱の際には、みな東国の武力をどう支配下に置くかに腐心することになるのです。