史料として挙げられている道教の経典には、仏教思想と思われるものが多い気がしました。また、「愛」「悟」といった、今の私たちにはよいイメージの言葉が鬼の名前として使用されているのは、なぜなのでしょうか。

六朝時代の道教は、仏教思想を採り入れつつ体系化され、教団としての発展を遂げました。最大の勢力である茅山道教、いわゆる上清派では、それまで道教にはなかった輪廻思想も採り入れられ、人間は生き死にを繰り返し善行を積むなかで浄化されてゆき、ついに神仙に至ることができると説いています。「愛」や「悟」といった字が用いられているのも仏教の影響でしょうが、例えば「愛」は仏教では妄執であって、必ずしも良い意味では用いられません。しかし「悟」はまさにサトリ、覚醒を意味する良い意味なのですが、「愛」と対になるものとの位置づけなのかもしれません。すなわち、「愛」と「悟」との二項対立によって、強力な磁場が発生している。「愛」「悟」はそれぞれ隣接する時間の温鬼の名称になっていますし、相対立する概念への囚われが、鬼霊の力として形象化されているのではないでしょうか。