いきなり律令体制を敷かれたら、やはり反発は必至だろうと思います。そんなにも無理矢理に中国的体制を採る必要があったのでしょうか。 / 中国の模倣が多いですが、日本オリジナルの法などはなかったのですか。

当時の国際情勢のなかで、中国化しなければ諸国との競合のなかで置いてゆかれてしまう、との危機感が強かったものと思われます。その点、ある意味では、現在よりもよほど朝鮮諸国、中国と密接に結びついた政治意識のなかで、王朝が経営されていたものと思われます。隋・唐が実際高句麗を攻撃したこと、高度な文化を持った新羅百済が中央集権化を成し遂げてゆくことに、大きな緊張感が持たれたのでしょう。なおなお、もちろん法律や制度について日本オリジナルのものもありました。そもそも授業でも説明したように、人制から伴造制・部民制へ至る統治システムは列島固有のものでした。また大宝律がなかなか編纂されなかったこと、(後述するように)施行後も規定どおりに適用されなかったことなどは、列島社会に固有の法・習俗が存在したことを逆に証してくれるのです。