四天王の格好が、飛鳥時代は文官だったものが天平に武官へ変わったとのことですが、中国における様式は関係していないのでしょうか。

話が大変に長くなってしまうので省略しましたが、実は、文官的様相を帯びた四天王像(正確にいうと、このタイプは広目天に限定されます)は、日本列島独自の様式と考えられています。作例としては法隆寺の四天王像があり、かつて存在した四天王寺のそれも、文書記録から同様の様式であったとみられています。広目天が筆と巻子を持物とすることは、奈良時代にも受け継がれてゆきますが、『仏説四天王経』などに由来する、六斎日という特別な月日に人間の善悪を監察・記録し寿命の増減を行う、という信仰に基づいています。これは中国六朝期に流行した考え方で、隋の制度を受けて日本でも始まります。奈良時代になると、『金光明最勝王経』の将来によって、より護国の戦闘的印象を持った四天王イメージが広がり、文官的様相は衰えてしまうわけです。『金光明最勝王経』は、国分寺の教学的基礎を立案したと考えられる道慈によって宣揚されますが、神亀年間から次第に配備が進められ、天然痘流行最盛期の天平9年(737)8月癸卯に、「四畿内・二監及び七道諸国に命せて、僧尼清浄沐浴せしめ、一月の内に二、三度最勝王経を読ましむ。又、月六斎日に殺生を禁断す」と出てきます。四天王イメージの変化に、天然痘流行が関係していることが分かります。