民族誌/民俗誌的な意味を持つ志怪小説は、その内容の非科学性からフィクションになった、という理解でよろしいでしょうか。

現実はもう少し複雑です。もともと神話や民間伝承、世間話などを対象としていた志怪小説は、仏教の影響を受けた仏教系志怪小説が生み出される過程で、上記に説明した説話のニュアンスを強めてゆきます。つまり、意図的なフィクションの度合いが高まるということです。唐代になると、断片的なモチーフをつなぎ合わせてよりストーリー的一貫性を追求した、「伝奇小説」というジャンルが誕生します。これらは多く生産されるものの散逸してしまうことも多く、後宋代に編纂された巨大類書『太平広記』にまとめられてゆきます。このプロセスのなかで、基本的な語りの枠組みがさまざまに作成され、以降の小説は(新たな趣向をこらしつつも)そのリフレインをメイン・ストリームにしてゆきます。志怪小説の段階では、話のもとが誰であるのか明記されることが多かったのですが、中世以降の白話小説、志怪系でいうなら『子不語』や『閲微草堂筆記』などでは、内容の広汎さに反して事実的裏付けは二の次になってゆくようです。ただし、この段階でもその筆者は史官系統の職に就いている者が多かったので、どこかに歴史叙述であるという感覚は持続していたのでしょう。これらが完全にまがいものとされるのは、やはり近代以降の文脈においてだろうと思います。なお、志怪小説の歴史については、魯迅の『中国小説史略』が基本文献です。東洋文庫に収められていますので、読んでみてください。