平城京に遷都するうえで、諸勢力にとっても何か実利的要素があったのではないでしょうか。

交通の問題を考えますと、平城宮は、北部の平城山を超えて木津に直結しています。飛鳥時代に外交である難波と都を繋いでいたのは、横大路などの陸路と大和川の交通路だとみられてきましたが、近年は大和川の水流がかつてもそれほどの量がなかったことが分かってきており、やはり淀川から木津川を通じて木津に至り、上ツ道・中ツ道・下ツ道を通じて物資を運搬するあり方が常道だったと考えられるようになりました。藤原京以上に木津に至近の平城京は、中国や朝鮮半島との交流をみすえた国際都市としては、好適な条件を持っていたといえます。