藤原京を造営した直後に平城京を造営することになり、国民から不満は出なかったのでしょうか。

動揺は小さくなかったと思われます。平城京への遷都を布告した翌和銅2年(709)の10月には、平城京造営のために人心が不安定となっているため、本年の調・庸を免除するとの通達が出されます。その前の月に、藤原房前が東海・東山2道の巡察を命令されていますが、これも何らかの関係がありそうです。以降、造営の民に徴発された役民らの逃亡が相次ぐことになりますので、民衆への負担は大きく、社会不安は増大したといえそうです。