三世一身法や墾田永年私財法が律令制を破壊したというのが通説だと思っていたので、むしろ律令制を強化したとの見解には大変驚かされた。しかし、だとすれば律令制は何によって崩壊したのだろうか? / 「墾田のカテゴリー」とはどういうことでしょうか。 / 「墾田」の規定が唐令にあり、大宝令になかったのだとすれば、なぜ最初から制定しておかなかったのでしょう。

「墾田」とは、国家の命令によらず、人々が自発的に開墾した水田のことです。唐令はこれに関する条文を定めていましたが、日本では公地公民に拘泥するあまり水田=班田の立場に立っていたため(すなわち国家が開発した水田を人民へ貸し与える形式)、墾田が生まれたとしてもそれを把握する規則が整っていなかったわけです。律令国家に至る過程で、土地・人民の私有をめぐる長い葛藤を経てきていたので、あえて大宝令から除外したものかも分かりません。前回、墾田は賦課対象といったことで少し誤解が生じたかもしれませんが、奈良時代人頭税ですので土地に税が賦課されるわけではありません。土地を開墾して墾田を得た人々は、税制で人頭別に賦課されている租を納入すれば、それ以外の収穫はすべて自分のものとなります。しかも、一定の年限が過ぎても、自分の手で開発した墾田は国家に没収されることはない。灌漑設備が確保され、働き手もいる有力農民や豪族層であれば、開発を展開するメリットは大きかったわけです。国家としても、一般の開発への意欲を利用したこの法令によって、税収の基本となる塾田の増加が期待でき、国家の予算を投入しなくとも水田が増加してゆくことが期待されたので、一石二鳥であったわけです。しかし、これに注目した有力貴族や寺院などが、民衆を駆使し、あるいは民衆の開墾した水田を奪いながら大土地所有を展開してゆく事態が生じてきました。それらには、特権の設定された不輸租田(租を払わなくてもよい田)が多く含まれたために、開発は進んで水田が増えても税収は確保できない情況となっていったのです。よって、奈良時代には律令体制を強化する機能を果たしたものの、公地公民の原則を解体してしまったことは確かであり、以降の大土地所有の展開のなかで国家の屋台骨を揺るがす事態を招いてゆくのです。