当時の国司層を除いて、貴族が海をみる機会はあったのでしょうか。

確かに、国司として任地へ赴く人間以外、平安貴族は、平安京のなかからまったく外へ出なかったような印象がありますね。しかし、そうした貴族の生活にも、折に触れて旅に出る、海をみるといった機会もなくはなかったのです。とくに10世紀以降になりますと、貴族や天皇らの間にも、伊勢や熊野への参詣が行われるようになってゆきます。いずれも海路、もしくは海岸沿いの陸路を通って目的地へ到達していますので、海の景観はどこかで目にすることになるわけです。藤原宗忠の日記『中右記』には、天仁2年(1109)10〜11月の参詣記録が残されていますが、10月21日条には、海浜に近い南陪庄亥野村々人宅に宿泊した際の感慨として、「此の躰を為すところ、里は林中に在り、宅は海浜に占す。浪響皷動し、松声混同す。嶺風は大に報へ、終夜耳を驚かす。京都の人、未だ此の如き事を聞かず」と記されています。怖れと疲労を抱きつつもその情況を楽しむ心情が垣間みえますが、海浜の荒々しい自然のありさまは、やはり新鮮な驚きだったのでしょうね。