伏羲・女禍の半人半蛇という姿が、葛洪らの蛇に対する感覚と矛盾するように思いました。

文化というのはおしなべて重層的であり、また多様ですから、例えば蛇に対する認識、感性・心性にしても、ある単一な視角のみでは捉えることができません。例えば、蛇に対する認識がマイナスのもののみであったなら、これをモチーフにした龍などが、漢民族の王を象徴する動物にはなりえないわけです。蛇に対する認識で、アジアに限らす世界的にうかがえるのは、両義的な位置づけです。脱皮を繰り返す点から死と再生のシンボルと受けとられるとともに、その生息環境から湿地帯の主、沼の主、池の主、水の神などと考えられてゆく。一方でその特異な容姿や毒を持つ特性などから、人間の敵、悪魔の化身といったマイネス印象も身に纏う。中国はまず、さまざまな民族が入り乱れる本当に多様な世界ですし、『抱朴子』にも、南人の価値観、中原人の価値観、その他少数民族の価値観などが交錯して表出されています。さまざまな相違を「矛盾」として捉えるのではなく(単線的に理解しようとするから「矛盾」になるのです)、なぜ違うのかを問う姿勢が重要であろうと思います。