平安時代の摂関政治は、藤原氏が意図的に始めようとしたのでしょうか、それとも天皇が主体だったのでしょうか。

時代の流れは、なかなか意図的に作り出せるものではありません。あえていうならば、時代ごとの行為の積み重ねの結果だ、とするしかないでしょう。これは、個別の話というよりも歴史の考え方になってしまいますが、かつて、時代・社会構造を動かず人間の行為=実践について、次のような議論がありました。皆さんもよく知るアルクスは、praxisという概念を掲げて、人間の意図的な行為(革命に代表される)が時代・社会構造を変革してゆくと考えました。それに対してフランスの社会学、その影響を受けたアナール学派歴史学などでは、pratiqueという概念を掲げ、人間の無意識的な行為=慣習行動こそが時代・社会構造を組み換えてゆくと主張したのです。自分のこととして考えてみますと、私たちは、自分の思うとおりに自由に振る舞っていると考えつつ、実のところは時代や社会の規制を大きく受けています。言葉にしても、考え方にしても、感じ方にしても。例えば、古代的特性、中世的特性などが叙述しうるほどに、心性史や感性史といった分野が成り立ちうるほどに、無意識・無自覚の領域が大きいのです。上に述べた「積み重ね」というのは、そうした意味もあります。摂関政治成立の画期をなしたのは、源潔姫を得て特別なポジションに立った良房でしょうが、彼が後に摂関となるような政治的地位を構想したとしても、桓武百済永継を後宮に迎え冬嗣を養子のような関係に置かなければ、嵯峨が冬嗣を重用し臣籍降下政策を進めなければ、そのような構想自体を持ちえたかどうかわからない。よって摂関政治は、天皇家藤原氏、それをとりまく政治体制の自律的変化のなかで、時代と人間との相互行為の結果として生み出されたのだと説明するしかありません。