平安遷都というと早良親王の怨霊を恐れたため、という印象が強いですが、占地は宗教的な理由から行ったのでしょうか、それとも単に地理的な便利さからでしょうか。

もちろん、まったくゼロということもないでしょうが、桓武の晩年を早良の怨霊に悩まされていただけのものとするのも、過小評価です。もし本当に怨霊が怖かったのならば、早良を後援していた勢力が扶植する平城京に還都していたでしょう。長岡京平安京は、新王朝を正当化する舞台として重要だったのであり、とくに王の権威を示す内裏や大極殿は慎重に建設されたはずで、だからこそ十全な計画を遂行できなかった長岡京は放棄されたのです。平安京のそれについては、のち平城天皇がその完備した様子を賛嘆する記録が残っています。