藤原氏のうち、なぜ北家だけが卓越した存在になりえたのでしょうか。

身も蓋もありませんが、歴史過程のなかでの積み重ねの結果、といわざるをえません。桓武天皇は北家より恩人の百川がいる式家に親近していたようですが、すでに同朝末年には、冬嗣の父に当たる内麻呂が政権の首座を占めていたようです。桓武は、この内麻呂の夫人で冬嗣の実母であった百済永継を後宮に入れていますので、内麻呂と同じ女性、冬嗣の母である女性を共有していたということになります。嵯峨朝に冬嗣が天皇の側近となり、その子の良房が皇女である源潔姫を夫人に迎えられたのは、このあたりを遠因としているように考えられます。ライバルであった式家が、薬子の変以降勢力を衰退させることも幸いしたようですが、いずれにしろ、良房と潔姫との婚姻が北家の立場を不動のものとしたように思われます。