藤原道長のあと、頼通が力を持ってゆきますが、彼は自分の娘を天皇に嫁がせてはいないのでしょうか。

頼通はなかなか娘に恵まれず、まず養女に迎えた姪の嫄子を後朱雀天皇中宮としますが、彼女は皇女2人を儲けたものの、皇子を出産することなく24歳で産褥死してしまいます。続いて待望の娘 寛子が生まれ、後冷泉の中宮、次いで皇后宮となりますが、やはり皇子を生むことができず中宮に格下げされてしまうのです(後に皇太后にはなっています)。摂関家が勢力を減退させてゆく一因にもなった、といわれています。