どうして検非違使のような重要な職が、本職にはならなかったのでしょうか。

検非違使の設置は、もともとは、左右衛門府の官人の特定の者に、京中の治安維持、不法行為の取締りを専当させたのが起源と考えられています。摂政や関白と同じく、本官がその職掌として定められた以上の職務を遂行できるよう、権限を拡大するような形で補任されていったものと考えられます。時代を経るにつれて次第に四等官的組織も整備されてゆき、権限もどんどん拡張されて、検田使や拒捍使として徴税業務をも遂行するようになってゆきます。長官である別当には、中納言・参議で衛府の長官を兼帯する者が任命されましたが、例えば『古事談』には鳥羽院の言葉として、「検非違使別当ハ、六箇事ヲ兼ヌル者ヲ任ズル官也、所謂重代・才幹・成敗・容儀・近臣・富有ト云々」と書かれており、特別な存在であったことが知られます。むしろ、特定の複数の官職を兼帯しているような存在でなければ、人格的にも、権限的にも務まらない役割だったのでしょう。