ランケ実証主義のなかに残存した「神」が、日本では天皇に置き換わってゆく、というところをもう少し詳しく聞きたかったです。

ランケにおける神は、歴史の巨大な展開を考察したとき、そのうねりの原動力として〈神〉という言葉を使わざるをえなかったのだと思います。現在の宇宙物理学者でも、例えば「ビッグバンがなぜ起こったのか」という問いに対し、「神の御業としかいえない」と答える人々がいます。客観主義とは、人間の行動にその人間自身を超えた力の作用を認めることですが、神の概念と無縁ではないわけです。いまならば、「社会」あるいは「構造」などといった言葉を使用したかもしれませんが。そうした意味で、実証主義を学んだ勤王思想を持つ日本のエリートが、歴史の展開に「どのように」ではなく「なぜ」という問いを発したとき、そこには天皇制の展開が拭いきれず侵入してきたのはないか、と考えるわけです。