はげ山にするほど一生懸命米を作らなかったら、日本人はどんなものを食べていたのでしょうか。

近世では「石高制」が敷かれ、経済の単位を米に置く、世界でも極めて得意な制度が機能していた。水田だけではなく、畑地や屋敷地を含むすべて「耕地」の生産高はすべて米の生産力に換算され、米で徴収されたわけです。よって、鍬や雑穀を作っていた畑にも米が賦課される形になりました。しかも、米はほとんど年貢として取られてしまいますので、庶民の貧民階級には行き渡らないことが多かったのです。さらに、大名が米を確保するために、身分制に基づく食事規制まで敷かれていました。寛永20年(1643)の「土民仕置覚」では、百姓は米を無闇に食べてはならず雑穀を食べるべきとし、雑穀を加工したうどん・切麦・素麺・蕎麦切・饅頭・豆腐についても、(雑穀が不足するので)各地での生産・販売を禁止すると書かれています。また、庶民の日常生活全般に触れた「慶安の御触書」でも、雑穀による食事の日常化と米食の抑制を重ねて通達しています。水田至上主義の近世日本にあって、それだけ米を作ってれば毎日米を食べていたんだろうと思うのは早計で、人口の大部分を占める人々は米など口にしていなかったのです。