なぜ京都の寺に平重盛像としてまつられる像が、源氏方である足利尊氏の可能性が高いのでしょうか。伝尊氏像が、高師直像とされるようになった理由も知りたいです。

これについては論旨が多岐にわたり、議論が繰り返されていますが、概ね新しい見解が定着しつつあるようです。新説は、数年前まで上智で教鞭を執っていた米倉迪夫さん、東大史料編纂所の所長も務めた黒田日出男さんが主張されたもので、神護寺三像を源頼朝平重盛藤原光能に当てる通説に対し、それぞれ足利直義足利尊氏足利義詮と解釈します。これは、肖像の書かれた絹の大きさや絵像の様式、服装の形式など有職故実がいずれも鎌倉後期から南北朝時代のものであるのに加え、康永4年(1345)に直義が神護寺に当てた「足利直義願文」に、尊氏と自分の対になった像を納めるとの文言があることなどが根拠とされています。実際の三像は非常に形式が類似しており、実際に伝頼朝・伝重盛の像は向かい合う対の形式で描かれています。なお、そもそもこの像自体には誰を描いたものという賛がないのも、議論が分かれる原因になっています。なお、騎馬武者の伝足利尊氏像は、江戸時代の黒川真頼『集古十種』に尊氏と明記されているため、そのように解釈されてきました。しかし近年は研究が進み、髻を切った総髪で、矢が尽き折れ、左足を負傷した敗戦の将の姿で描かれていること、刀の柄や四方手に高家の家紋である輪違紋が描かれていることなどから、もともとは観応2年(1351)12月の打出浜の戦いの師直の功績を賞するために描かれた、と考えられています。