冒頭で、近代は暦が関係ないとの話が出ましたが、いつからそのようになってしまったのでしょうか。四季や暦がはっきりしているのが、古き良き日本ではないのでしょうか。

やはり、自然環境に根ざした第一次産業が衰退し、また変質してしまったからでしょうね。現在農業に従事している人々も、近世以前と同様に太陰暦を意識し、身体化して生活してはいないでしょう。自然環境と人間との接触が、あらゆる面で直接的ではなくなってゆき、多様な媒介物をさしはさむようになったのも原因です。現代文明を「無痛文明論」と捉える見解があるのですが、それは、現代文明は人間が自然環境との直接的な接触などによって不快だと感じるものを、極力緩和し排除するように作られているというものです。例えば現代日本では、寒冷な季節には暖房があり、店舗には種々の食物が溢れている。金銭さえあれば、寒い思いをしなくてもよく、獲物を捕る苦労や殺す不快感を味わわなくて済む。凍死や餓死をすることなく生活できる。しかしそのことによって、季節の変化を敏感に感じる感覚や、動物や植物を意識する目線、あるいは苦しんでいる他者への共感、生命の尊厳に対する意識などはだんだん衰えてきてしまう。近代文明が、物質的豊かさを提供する反面、我々から奪い去ったものも多いのだということでしょう。ちなみに、環境史・気候学的にいいますと、四季が明確であるのは文化によって作られた認識で、実は春・秋は夏・冬への過渡期に過ぎず、機構的には極めて曖昧なものでしかありません。文学的にも、『古今和歌集』あたりによって確立される自然観だと考えられています。次の文献(洋書ですが)が、そのあたりのことを明確に論じています(http://goo.gl/1oZJKC)。